<宮崎へ>
飛行練習生(実用機専修)となる。今度は実戦に使用する飛行練習である。大村での練習機最後の時、皆の希望を取った。私は戦闘機はカッコーいいが、一人で操縦、射撃、航法、通信とやらなければならないので、とてもできそうにない・・と、大勢乗る大型機を希望した。大型機なら死ぬ時も一緒だし、操縦は操縦だけだし、その方が楽だと思ったからだ。昭和19年2月24日、冬の寒い大村航空隊より、今度は逆に南国の宮崎航空隊へやってきた。
ここ宮崎は一年中気候が良く、何だか心も浮き浮きだった。宮崎駅に着くと航空隊の迎えのトラックが我々を待っていた。早速乗り、立ったまま市を通り、航空隊の門を入る。
宮崎航空隊は昭和18年12月にできたばかりの新航空隊だった。私達の行く3ヶ月前にできたばかりで、滑走路も一本しかなく、その他のところは砂や石ころで、学徒動員の生徒が一生懸命勤労奉仕で飛行場を作っていた。また一般の人夫も小屋を作り、やっぱり国のため皆一生懸命作業に従事していた。男女学生・人夫が作業する中、私達は飛行訓練に入った。
2月末とは言え風が強くて、最初は丙種飛行練習生(一般兵科より募った練習生)の先輩の離着陸を指揮所の屋上より見学させられた。強い風の中、次々と見事な訓練ぶりを見て、私達も早くあのように上手になりたいなあと思った。翌日より猛訓練が開始された。使用機は96式双発の陸上攻撃機で、ここ宮崎航空隊では、支那事変が始まって最初の東洋爆撃をやった機が練習生のために使用されていた。爆弾をぶらさげてはるばる支那戦線まで爆撃し、
世界にその名を示した96陸攻。私達もこの武勲ある飛行機で訓練するので、身がキューと締まった。まず最初、午前は飛行訓練、午後学科だ。滑走路はコンクリートだが、誘導路その他は整地されていない。少しでも誘導路の外へ車輪が出ると、砂の中へめりこんでしまう。一人は地上滑走中絶えず天蓋を開けて操縦者に右、左と手で道路の方向を指示する。前に地上滑走している機の後流で砂埃がモウモウと飛んでくる。初めは慣れないので蛇のようにウニャウニャと機首が振れる。その度に冷や汗をかく。道路付近には学徒動員の男女生徒が作業の手を休ませて珍しげに、そして憧れの目を集中して見ている。我、その時いとも誇らしげに胸を張り、学徒よ我に続けと。順番でない練習生は、女学生ばかり見てニヤニヤしている。女学生もモッコやシャベルを離し、憧れの目でジーッと(アチチ・・)見ている。滑走路は南北に伸び、北に飛び立つ時は松林すれすれに、砂丘に向かって飛び、海に出る。南に向かって飛び立つとすぐ山だ。横風の場合、一本の幅の狭い滑走路に着陸するのは難しい。着陸時はスピードが弱くなっているので、うっかりすると横へ流され、滑走路からはみ出てしまう。車輪が滑走路外に出て砂や石ころの上をガリガリ。あわてて上昇飛行にうつることも度々であった。